ある誕生日に過去の研究生活を振り返って

 

先週末は4○歳の誕生日だったので、近所のロンドン出身のイギリス人シェフの方がいらっしゃるカフェで相方と一緒にスコーン&ヨークシャーティーのセットを頂いてきました^^。
うちはどちらも実家が遠く預け先なく子どもが小さい間2人でお茶は無理でしたが最近ようやく可能に。

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2007年にアメリカから永久帰国して13年。
すぐに長女の出産で、3年後には長男の出産、子育て多忙期であまりカフェとか開拓する暇もないまま13年が過ぎて。ようやく成長した子どもだけ家に残して夫婦2人で、子どもができる前のようにちょっとお茶でも行く? とかできるようにもなってきました。
とはいえ病気持ちというのもあるしコロナのこともあって、あんまり遠出はしませんけども。

うちの相方と知り合って早20年。来年末には結婚20周年。
20年前、まだ関西の某地方国立大学の大学院生だった頃。うちの院の教授のおひとりがオクスフォード大の某コレッジにいらっしゃるフェローの先生と懇意にされていて。それがきっかけでうちの院とあちらのコレッジとの間に交換留学制度ができ、大学院所属の研究生として1年間オクスフォードのコレッジで勉強できることになり。研究生なので学位は取れませんし非正規の学生ですがレクチャーも少人数セミナーも自由に出席できるし、チュートリアルも受けられ、何よりもボドリアン図書館および系列の学部図書館を好きなだけ自由に使えるという。コレッジ所属の図書館は別途いろいろ利用予約とか必要でしたが、それほど面倒なことはありませんでした。ライブラリアンも親切な方が多く^^。日本の図書館にはない資料を収集したかったので、1年間、朝から夜までボドリアンのリーディングルームで資料収集できたのが有り難かったなーと。コレッジのMCRにも所属できたので世界各国から留学中の院生さんたちとも毎日ホールで一緒にガウンを着て食事したり談笑したり、タームごとのイベントにも参加したり。いろいろ研究以外でも貴重な経験をさせていただきました。
ちょうどその頃オクスフォードの別の某コレッジで院生をしていたのがうちの相方で。オクスフォードでの院生生活も3年目を迎えた頃で、私は別のコレッジだったし専門も文系と理系で全然違ってたんですけど共通の友人がそこのコレッジの人で。相方は4年間の院生時代の間にソサエティの幹部とかしていて顔も広かったので、他のいろんなコレッジの学生さんたちとレストラン巡りをしたりイベントに参加したり、いろいろ楽しい思い出も作ることができ。

この20年、最初の1年はオクスフォードで一緒でしたが、私は1年の留学生活を終えて帰国、相方は博士号にもう1年かけることになって、2年目は遠距離恋愛というやつで^^;。
3年目は博士号を取った相方があちこちジョブインタビュー受けてアメリカのラボでポスドク生活を始めることになり。私は単位取得満期退学で博士課程を終わって、論文博士を目指しながら非常勤講師をしてたんですけど、もう相方がアメリカに永住かな?という雰囲気だったので、仕事を辞めてアメリカへ。でも、いろいろイギリスで収集した資料をもとに続けたい研究もあって、あと小さい学会からですが院生の時と非常勤の時と論文で2回ほど新人奨励賞佳作を頂いたのもあって書類で有利に働くかな?という気持ちもあり、試しに某フェローシップに申請しておいたんです。そしたら、それが合格して。それでまた4年目から6年目まで私が日本に戻ってポスドクフェロー、相方はアメリカでポスドクフェロー、と別居婚が3年間。

で、ここから長文。
というか、この15年くらい、いつか文章にまとめて書こうと思っていたことを今きちんと書いておきたいというか。自分の中の区切りをつけたいのかな。こういうこともあるので注意しましょう、という体験談のようなものになるんでしょうか。まともに書くと重い内容なので、わざと軽めにエッセイ風に書いておきます。

まーその後、任期が終わる頃にどうしようかなぁと思ったんですけど、その頃なんというか、はっきり言うとポスドクの時にラボに所属させてもらいながら博論の指導もしてもらってた人の(正直もう先生とすら呼びたくない...)アカデミック・ハラスメントがすさまじく--;。
あんまり家族や当時の友人以外の人に話したことないんですけど、あれから15年以上経ってやっと普通に文章にも書けるようになったというか。
なんですかね、後から院の先輩から聞いたんですけど、その頃、その人ずーっと科研費が当たらない年が何年も何年も続いてたんだそうで。そんなこと私は全然知らなかったんですけども、私のフェローシップが研究費(と言っても一般の科研費でなく若手フェロー用のもの)も使えることを知ってものすごい嫉妬心を抱いたようで。後で思い出したんですけど、何気に、若手の科研費の申請もしないと、みたいな話をしたらその人の顔色がさっと変わったことがあって。急にものすごい険悪なムードに。多分、今思えば、なんでこんな地国出身が科研費!?とその時に思ったんでしょうね。
その後、なんと、やれ研究室にパソコンを買うから30万円計上しろとか、学生に図書を買いたいから10万円計上しろとか、申請書を出す前からメールや口頭での命令がどんどんと...は、どういうこと?というか、えーこれ誰の研究費?ということになり。なんかもう、一体、自分で使える予算は結局いくらになるの?海外の図書館にリサーチに行けるの私?という感じになってきて--;。
さらに、私の院生時代の先輩が当時は助手をされてたんですけど、その助手の方にも無理やり私に科研費をその人に渡すようにお願いさせるメールまで送らせて。論文博士の指導料だと思って出してあげてください、できるだけその人と喧嘩しないように、という内容でしたが、はっきり言って今まで私ほとんど指導されてないし。賞をもらった論文もすべて自分ひとりで書いて添削なんて誰にもしてもらってなくて、後から賞もらいましたとお知らせだけしただけ。紀要とかもそう。卒論、修論はさすがに指導してもらいましたが学生は誰でも見てもらう訳で。でも博論すら1冊たりとも参考文献を教えてもらったものはなく。さすがにイントロダクションは見てもらいましたが、あと本文とか英語だったのもありネイティブの先生にほぼ全部見てもらって。あーそういえば学会発表の時の読み上げ原稿は一度見てもらったかな? だからオクスフォードでチュートリアル受けた時、チューターが私が書いたエッセイを読み上げながら訂正したり意見を述べてくださったりした後で、さらに、その項目ひとつひとつを全部リストにしてword文書にまとめて参考意見とかもさらに書き足し、それを自分でA4文書に印刷してくださったものをピジョンホール(郵便受け)に見つけた時は、個人指導というのはこういうことなのか、と本当に驚いたというか。そんな念入りに見てもらったこと一度もなかった、と。
(ちなみにその人が30万円計上しろだとか助手さんが指導料と思ってとか書いてきたメールは大学のドメインメールからだったので(後でヤバいと思ったのか今後の返信は個人メールに送れと言ってきましたが)、証拠に一応ちゃんと今も大事に時系列で遡れるように残してあります。資料の整理は得意。相方にも詳細を話して失くさないようクラウドにキープ。さらっと気持ちよくきれいさっぱり忘れられるようなことではないので...)

そんでもって、私がオクスフォードで集めてきた資料をもとにして本を出そう、という話をその人がもってきたのはいいんですけども、いつまでたっても、その本の出版を担当する会社の名前も、その会社の人の名前も一切教えない。僕の「友人」が新規に始める会社だ、としか。
でもその当時はどれも日本の大学図書館にも国会図書館にもない資料で、英国でもボドリアン図書館含む少ない場所でしか読めず、その頃はまだ電子化もされてなくて。春夏はともかくあの秋から冬にかけての寒い寒い真冬のボドリアンで凍えながら朝から夜まで私が資料を読みまくってメモ取ってコピーしてきたものを、そんな名前も分からない「友人」に渡したくないじゃないですか。それで、何度か、それは一体どういう会社でどういう名前の人がやってるんですか? と強く訊いたんですけど、結局一度も答えてもらえず。なんというか、そういう妙な秘密主義みたいなところがあるのは他の学生さんとかも言っていたので、まーなんというか、大学の先生の前に社会人としてどうなんですかね、と、今になっても思う訳で。結局、この話をもちかけられて最終的に私が正式にお断りしましたが、最後の最後までその「友人」の名前も出版社の名前も教えてはもらえませんでした。
あなたの研究を元に本を出すけど、その相手の名前は教えない、って、意味分からん--;。せめて鈴木さんでも佐藤さんでも、上の名前だけでも教えてくれてたら、まだ印象は違ったんでしょうけれども、「友人」以外の情報はひとつも得ることができませんでした。
その後、その話がどう進展したのか一切連絡はなく、出版が済んで中にはさむ薄い冊子が送られてくるまで何の連絡もありませんでした。私の研究が大元なのにね。

なんか、もう、私が非常勤講師を始めた時も思い出すと異常事態で。理学部の1回生向けの英語のクラスだったんですけど、TOEICの授業だけだと面白くないと思って、授業の1/3くらいの時間で私の専門の作家の小説を読むことにしたんです。でも別に原書じゃなくて教科書会社が出してる抄訳の教科書で。なのに、いきなりその人から家まで電話かかってきて、君なんかにあんな19世紀の小説を教えられる訳がないだろう、と。それこそバカとかも言われ。その人、とにかくそういう自分が認めないことを誰かが許可も得ずにやることが気に入らない人で。前も、院の先輩に頼まれて英語の教科書の参考訳をつけるバイトをしたことがあったんですけど、バイトですよ、なのに、そういう訳をつけるというレベルのことを私がやったことが許せなかったみたいで、めちゃめちゃイヤな顔されて。普通、勉強になるしいいバイトもらったね、とか、指導教官なら喜びそうなもんじゃないですか? 私が指導教官で自分の教え子がそういうバイトしたら、絶対そう言うと思いますし。非常勤だって、初めての授業だから頑張ってねって言うと思う、絶対。
結局、小説に関しては、受験英語なみに細かく構文分析から丁寧に説明して、ここは難しいけどこういうふうに後ろから説明してるんですよ、とか、こういう構文なのは複雑だけどこういう意味があって、とか文体の説明とかもして。確かに理学部だったので、文学部ほど英語ができるクラスではなかったけれど、1回生というのもあってフレッシュな気持ちがあるというか^^、試験したらちゃんと難しい所も丁寧に説明した通りに訳してくれてたし、最後のアンケートでも、確かに教科書は難しかったけど面白かった、という声も多くて。作家の伝記的な話とかすると結構面白く聞いてくれてたし。20年くらい前の話ですけど、新米なりに頑張った甲斐があったなーと。理学部だから、もうそれっきり英語で小説を読むなんてことないかも知れないけど、ちょっとでもその文学作品の英文の感触というか、頭の隅にでも残っててくれたらいいなーということで♪
しかも、その非常勤の時間が朝一番の一コマ目というスケジュールで。後で他の人から聞いたんですけど、実は二コマ目の講義も受け持てたのに、この人が一コマ目にしろと主張したそうで。私が遠方に住んでたのを知ってての嫌がらせ。おかげで自費で交通費を補って朝の通勤のみ新幹線通勤することになったという。博士課程出たばかりの一コマの給与ではとても新幹線代をカバーできず、トータルで講義をする度に赤字になるという、とんでもない非常勤でした。でも、朝一番にもかかわらず学生さんたちが一回生というのもありすごくフレッシュで一生懸命に講義を受けてくれてたので、それだけが救いだったかな。

その教科書騒動があったのが私が満期退学で博士課程を出る数ヶ月前で。満期退学した次の新学期4月から母校の大学で何コマか非常勤をする予定だったんですけど、母校には学部1回から途中で留学をはさんで博士3回まで在籍したので、まー古株とはいえば古株なんですけど、院の後輩たちが気を遣ってくれて、先生方も呼んで外のレストランで送別会を開いてくれたんです。で、それが3月で、ちょうど教科書のことでその人と電話でひと悶着あったすぐ後で。でも私の送別会だから、その日は何もなかった顔をしてスルーしようと、私は、思ってたんです、せっかく後輩が開いてくれた送別会だし。そしたら、なんとその人、送別会の途中で私をレストランの隅に呼び出して、こないだの電話でのことは一体何なんだ、って怒鳴り始めて。いやーもう、この人ホントに大人なの?!って思いましたよ、その時。社会人じゃない、子どもだなって。自分の気持を抑制することができないんだな、と。もー頭にきて、売り言葉に買い言葉で私も言い返し始めて。だって、何も悪いことしてない、ただ自分の授業の教科書を自分で決めただけじゃないですか? しかも今、私が主賓の送別会ですよ。あり得ないでしょう。もう、後輩には申し訳ない他の先生方にも申し訳ないけれど、その場で席を立って帰宅させてもらいました。後輩たちが最後にお花を用意してくれてたようで、ホントに後輩にはレストランの予約とか準備とかしてもらったのに、申し訳なかったなと。でも、もうちょっと、我慢の限界を超えてましたね、あの時は。
私は映画が大好きで、学部生・院生の時はLL教室をお借りして自分でポスターとか作って自前の映画上映会をしたりしてたんですけど、その人も映画が好きで。いろいろ映画の話とかもしたりして、多分そういうところで、私って認められてるのかな?と勘違いしたんでしょうね。別に認めてなんかなかった、映画もオレが教えてやろうみたいな意識で話してたんでしょう。自分よりも下のうちはいいけれど、科研費とか翻訳とか、そういうお前には無理だとその人が考えていることを私がやると途端に横槍を入れてくるという。なんていうんだろう、もう、私だけではないんですけど、自分に許可を得ないで何かを決められるのが許せない、異常な支配欲みたいなものがあって、それがいかに客観的に見ると理不尽でも、自分がそう感じたらそれが正しいのだと思いこむのかな。ちょっともう普通には理解できないですけど、20年経って思うに、そういう性格だったんだろうと思います。

で、まーその他にもいろいろ訳の分からない嫌がらせもあって(メールで済むような話なのに、わざわざ遠方から呼び出しておいて、5分で面会をわざと終わらせるとか。あーその時の交通費の借りもあるわー)。それで他の先生方とか知人とかに悩んで相談してたらそれが耳に入ったらしく激怒--;。その時のセリフがすごくて、いまだに覚えてるのが、その人は某旧帝大出身で、「今どき僕の出身大学の人間でさえも研究員になれない人がいっぱいいるのに地国出身の君が研究員になって研究費をもらうなんて不相当だと思わないのか」みたいなことを面と向かって言われ--;。一応、再確認しておきますが、その人、私の指導教官だったんですよ、冗談みたいでしょ^^;。
自力で誰にも指導してもらわずにこつこつ論文書いて賞もらって、真面目にこれも自分ひとりでいろいろ調べて申請書書いて出して通ったのに、この言われよう。他にももっとヒドイこと言われましたが(なんか自分の後輩にあたる教授に「審査に通るように手をまわさせたんだ、確認した、君の実力じゃない」とかも暗に言ってましたけど(すごいこと言うよね)、絶対ウソ。だって推薦書書いてもらう時から「ムリムリ」ってどれだけ言ってたか。最初、旧姓で書類を提出したら、提出先から戸籍の名前で旧姓はカッコ入にして再提出って戻ってきて、推薦書の私の名前を修正ペンで訂正するのをお願いしたら、どんだけ嫌味に面倒だなぁと言われたことか。それを後から自分のおかげとかよく言うよなーと今更ながら...まーもうムカつくだけですけども)

まーそれで、結局、すんなりOKしない私にあちらが逆ギレした挙げ句に研究費はもういらん!と言い出したので、いろいろあったけれど最終的には自分で全部使えてよかったかなーと。そうでなかったら1年目なんて半分くらい(いろいろ合計すると40万円)もっていかれそうでしたもん。私だって、いくらか母校の出身学科に恩返しというか、学生が使えそうな専門書とかの購入をするつもりだったんですよね。でも、それをする前から、こんな状況になってしまって。で、そんなことがあったのでもう関係は修復不可能なところまで行って、というかもう私がこの人とはもうムリだなとある時点で悟ったので、そういう風に持っていったところもあるんですけど、そんなこんなで、とりあえず向こうも博論指導の経歴は欲しかったんでしょうし論文博士だけは取って。で任期終了したところで相方もアメリカ永住だとその時思ってたので、日本と研究と一緒にさよなら~したのが6年目くらい。
まーこの頃はホントに大変でしたが、でも今15年以上も前のことなので、あーそんなこともあったなーくらいの感じかな。そのわりに長文スイマセン^^;、いやー久しぶりに思い出して文章にまとめたら、20年近く経って振り返っても、無茶苦茶な人だったなーと。よく鬱病とか発症しなかったな私、めちゃエライ、と改めて自分で自分を褒めてあげたり♪ まーねー、もっとちゃんとした先生についてたら、渡米する時に研究を続ける方法とか相談できたのかも知れないけど...大学には残れなかったけど、今も自分が好きだった研究者の新しい専門書とか論文(大学に属してないので入手できる範囲でですけど)とか読むの好きですし。たまに今でも近くで専門だった分野の学会があると聴きにいったりして。今はもう直接大学とか関係ないけど(相方は大学で研究者してますが基礎研究の人で私の文系分野とは無関係)、自分が研究した時間は今の生活を豊かにするのにそれなりに役立ってるかな、と思っています。まー何より、幸せですし^^。

ちなみにうちの相方もオクスフォード行く前はその人とは別の所だけど旧帝大にいたので、別に旧帝大の人がどうとかいう話ではなく、その人の人格が異常だったという話で。仲の良い知人にも旧帝大出身の人はいますし交換留学制度を作ってくださった教授も旧帝大出身だったし。その先生とは、今はもう80代になられてケアハウスにいらっしゃいますが、帰省した時とかにご挨拶に行かせていただいたりしています。研究対象の時代や作家・詩人が重なっていなかったので直接の指導教官ではなかったですが、学部から院までずっと講義に出てたので、懐かしいなぁと^^。今もとてもお元気で、80代でいらっしゃるのに翻訳の出版とか今も計画されてて、びっくりです。パワーいただいてます♪

それから、アメリカ永住のはずがなぜか日本に戻ってくることになったり、知人がひとりもいない土地で子育てスタートでめちゃめちゃハードな日々だったり、10万人に1人の難病にかかったり、まーいろいろありましたが、なんとかかんとか生きてます。アメリカも西海岸や東海岸ではなくて田舎の中西部というのがまた、あの辺の雰囲気を肌で感じられたのがよかったかな、と。街を10分も車で出れば地平線までトウモロコシ畑の景色とか。帰国してからは、たまにはスコーンを食べて、またいつか一緒にオクスフォードに行きたいね、と相方と話したりしてるのが至福の時でございます。あと英国映画・ドラマを見てる時^^、これははずせません♪ 母校にはもう博士号授与式以来、一度も行ってません。その人に会いたくないので。学部から院まで、留学はさんで10年も在籍したのにね。

アメリカに住んでる間、うちの相方がポスドクしてた研究施設に日本から海外ポスドクに来る人が沢山いらっしゃったんですけども、食事会の時とか昔こんな酷いことがあったんですよーと話したりすると皆さん口を揃えてそれはアカハラですねと断言されてたので、私の判断は間違ってなかったな、と。まーなんというか、もっと普通の研究員生活したかったな、と。論文出たら喜んでくれて、いろいろ批評してくれて、フェローシップもらったら頑張ってねと普通に言ってくれる、そんな「普通の」指導教官に指導していただきたかったな、と。自分と同じ大学出身ではないということを理由に、教え子のリサーチもフェローシップも否定し、お前に相応しくないお前のものではないというメッセージを出してくるような人じゃなかったらよかったな、と。それだけです。

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ミネソタ州の見渡す限りのトウモロコシ畑。この写真は車の中から撮影、ミシシッピ川に観光に行く道中でした。この辺は「大草原の小さな家」のインガルス一家が馬車で移動した経路の近くでもあり。

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春先のトウモロコシ畑、長い長い冬が終わって本当に気持ちが晴れ晴れとします。
こういう風景を見られたのは、日本に永住帰国した今も宝物です。


ひとつだけ、わだかまりがあるのは、結局その人、私が作成した資料リストをもとに19世紀文献の復刻版を出したそうで。結局、博論の指導教官だから私の資料とかそれに載ってる訳で、あと私が自腹でスウェーデンから取り寄せたりした専門書のコピー取らせてくれ、とかも言われたし。もちろん無償で。で、私の院の先輩だった人に私の博論を渡して(知人によるとその人がいつもそれを持ち歩いてるのを見かけたとか)日本でいろいろ調べ直させて紹介文を書かせて、自分は序文を書いて出版したらしいです。その序文も、私が興味深いなと思って見つけて引用した専門書の一節を自分が見つけたみたいに...--;。後でもめないように、編集協力、という名目で私の名前も小さく載せてるようなんですけど、はっきり言ってそんなところに名前載せてほしくないし。というか、その本体そのものをいまだに私一度たりとも見せてもらってませんし、本体を送ってもらったこともないです。中に挟んでる薄い解説文のみ出版社から届きましたけど。その切手代は郵便で切手にして送り返しました。もちろんその出版に関しては1銭たりとももらってません。私が自分で文献リスト作って、ひとつひとつこれは違う、これは使える資料、と、ボードリーで本をオーダーしてひとつひとつ読んで作ったリストなのにね。完成したリストだけタダ乗りして本出されるとは思わなかったよ...

その人に最後に会ったのは、学長室での博士号授与式の時だったんですけど、もームスーっとしてね。口もほとんどきかず。おめでとうの言葉もなく。まー研究費を使わせろって言ってきたメールにもお願いしますのひと言もなかったですけど。最後に、本が出たら君の名前を載せてもいいかって言われて。いいですよって言いましたけどね。でも大事なのは、君の博論をもとに本を出してもいいか、とは聞かなかったんですよ。私も、最終的にその本への協力はお断りします、ってはっきり言っただけで、でも、私の博論を本に使ってもいいですよとは一度も言ってないですし、向こうも、プライドが許さなかったんでしょうね、使わせてください、とは一度も聞いてこなかったという。まー無断で出した形になってますよ、っていう。
そういえば何年か前に行った学会で、専門書を扱う書店ブースを見て回ったことがあり。その中に、あれ?もしかしてこの書店あの復刻版を出した所?という展示コーナーがあって。そこにいたお店の人に、昔こんな本をお出しになりました?とお聞きしたら、はいはい、あれはとても評判が良くて某テーマに関心がある先生方にもよく買ってもらったんです、みたいなことを言われて。ものすごく複雑な気持ちになって。だって、その基礎文献を集めたのは私なのに、その本を出した人は私のこと、ただのお客さんだと思って話してる訳じゃないですか。「実は昔、ちょっと協力したことがあって...」と言いかけたんですけど、バカバカしくなってその場を離れました。向こうは、もしかして○○先生の?と言いかけてましたが...。なんか、思い出すとショックでしばらくすごく気持ちが沈んだりとかして。あんな書店ブース行かなければよかった。

話をまた戻すと、そんなこんなで博士号取ったところでいろいろありすぎて、もう指導してくれる人もいないし相談できる人もいないし(さっきの80代の先生はもう退官されてた)、で紀要とか研究雑誌とかに各章は掲載してたので公開はしてあるんですけど、専門書として出しそびれたというか。やっと最近、下の子も小学校高学年になり子育ても落ち着いてきたので(とはいえ相方の就職先が両方の実家から遠いので親のヘルプは期待できず)、研究員の間に大英図書館とかでも収集した資料とかもまとめて、いつか本にできたら、とか思ったり。epubとかでも今は冊子にできるし、アカデミア向けでなく一般の人にも楽しんで読んでもらえるような、とか思ってますが、どうかな、内容にもよるけど...
ま、そんなことを、つらつら考えたり書いたりしてる誕生日です。
そのうち、このブログを研究ブログとして、いろいろ研究内容をコラムのようにアップしていくのも面白いかな、と思ったり。

大学にはこういう人もいたりするので、もしこういう人に当たってしまって理不尽な理由でアカハラをされるようになったら全力で逃げた方がいいです。逃げるは恥だが役に立つ、というのは真実で。はっきり言って時間の無駄。40代50代までそういう性格で生きてきた人が改心することはあり得ないです...実家に戻るとか、文系はすごく大変だけれど指導教官を変えるとか、とにかくメンタルをやられてしまうと他のこともできなくなってしまうと思うので、とにかく離れる、生き延びることを大切にしましょう。それはアカデミアだけでなく一般企業とかでも同じことだと思うのですが、どうなのかな...そんな人のためにキャリアだけでなくメンタルをやられて人生全般まで壊されたらたまったものではないです。
あと、家族でも友人でも、誰かひとりでも話を聞いて相談にのってくれる人を見つけること。私の場合、院生時代の先輩が本当に親身になって味方をしてくださって、愚痴を聞いてもらったり、先輩なのに私の事務的なこととか手伝ってくださったり、本当に有り難かったです。今もときどき帰省した折にお会いしてますが、本当にいくら感謝してもし足りない、心の支えでした。

ちなみに、博士号のお祝いは指導教官には言ってもらえなかったけど、うちの相方の指導教官(全然違う分野^^;)に相方と一緒にご挨拶に行かせていただいた時、話を聞いてらっしゃったそうで、おめでとうよかったね、と言われ。あと、うちの相方がアメリカでポスドクしてたラボを運営してたPIの人(その人も全然分野違いだけど)にも、おめでとう、とパーティで言われたのでそれで満足です。NIHでがんがん研究費を獲得してくる新進気鋭のパワフルな研究者さんでした。その人たちそんなことを私に言ったことも忘れてらっしゃるでしょうけど、私がもうそれでよかったかな、と思えたので感謝です。

それから、最後に、スゴイことがあったんですよね。学長室で博士号の証書をもらって、ふと後で証書を見直したら、なんと!! 博士号の授与日が4月21日、シャーロット・ブロンテのお誕生日になってたんですよ! こんな偶然、あります?! なんかもう、すごい嫌なことばっかりでモヤモヤしてたのですが、それを見つけた時に、あー敬愛するシャーロット・ブロンテが「お疲れ様」って言ってくれたのかな、と、思ったんですよね。それで、もう、いいや、と。ダメダメな指導教官なんかどうでもいい、っていうか、論文と名の付くもので指導らしい指導ほとんどしてもらったことないし。私が独力で頑張ってきた研究生活、シャーロットの誕生日でとりあえずもうOK、にしておこうと思いました。



えー長くなりましたが、話を戻すと、オクスフォードでお茶するならノーズバッグ(The Nose Bag)というお店が私も相方も好きでした♪ 15世紀だったかな、歴史ある古い建物にある有名なお店です^^。まだあるかな、いつか家族でまた行けますように...
私の研究生活のハイライトは、ボドリアン図書館に籠もってひたすら文献リサーチに明け暮れていた1年間、至福の1年間でした。大した内容ではないけれど私の書いたものに他人のリサーチを盗ったものはひとつもないのが誇りです...

ラドクリフ41_Fotor

*世界中から研究者が集まるBodleianですがRadcliffe Cameraの2階は人が少なく、夏はひんやりして涼しかったのでよくここにも本をオーダーしてました。読むのに疲れたら見上げてほっとしたドームの屋根。眺めるだけで眼福です^^

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*1年間お世話になったOld LibraryのUpper Reading Room。今日でここに来るのは最後、という日に記念にこっそり^^;撮影。今はもう時効かな? 天国のような場所でした。帰国しないでずっとここで朝から晩までいられたらよかったなぁと。またいつか行ける日があれば...

英文科図書館36

*こちらはSt Cross Buildingという建物の中に入っている英文科図書館。ボドリアン図書館オールドライブラリーの書籍はすべて館外持ち出し禁止ですが、こちらの学科図書館は19世紀中旬以降のものなら普通に開架の棚に並んでいて、そのまま貸し出しもできるしカウンターを通さずともコピーが取れるので本当に助かりました。